ギリシア哲学(万物の根源は何か)
哲学が生まれる前、人々の「なんで自分は生きているんだろう」「なんで人間は死んでしまうんだろう」のような問いに答えたのは神話でした。
例えばユダヤ教の神話では、神が天地を創造し、アダムとイブを作り、2人を楽園に住まわせた。でもアダムが禁断の果実を食べちゃったせいで堕落して楽園を追放、その罪として人間は死すべき存在となった……みたいな感じの物語があって、それを提示することで人々が生きている上で生じる問いについて答えています。
宗教とその神話というのは私たちの答えとして非常に優れたものでした。でも神話から導き出された答えには欠点があります。それは、みんながみんなその宗教を信仰しているわけではないということ。○○教の神話にある私たちの答えは、その他の宗教を信じている人にとっては答えではなかったんです。
イオニア地方のミレトス、というところではいろいろな文化が展開されており、みんなが同じ宗教を信仰し、みんなが同じ答えを持つ、というのは難しいことでした。
今まで私たちが答えだと思っていたものはどうやら答えではないらしい、ではほんとうのところ世界はどうなっているんだろう?
……ということで、神話などにとらわれずに、全人類が納得できるような原理(アルケー)を考え抜く哲学というものが生まれたのです。
タレスは万物の根源(アルケー)は「水」と、はじめて現象の背後に神を想定せず、世界をもうこれ以上考えられないところまで突き詰めました。
つまりタレスは、例えば自分自身や目の前にあるぬいぐるみ、植物などを細かく細かくみていくと最後に残るのは水だよね!って考えたわけですね。
そっか、私水だったのか〜このままどこかへ流れていってしまいたいわね。
タレスの弟子のアナクシマンドロスは水がアルケーであることを批判します。
だって、アルケーが水っていうなら、同じく感覚できる火とか土とかでもいいってことになるじゃん!
アナクシマンドロスさん、アルケーは水や火など限定されないもの、「無限なるもの」と考えます。実在的なものではなく観念的なものとして考える、ということです。
私たちにとっての神など、頭の中で考える想像上の存在のような感じです。
アナクシマンドロスさんがいった「無限なるもの」、は神ではないですよ、あくまで観念的なものの例です。
ちょっとわかりづらいかもしれませんが、アナクシマンドロスさんは無限なるなにかがある!そしてそれこそがアルケーだ!と考えました。ヘーゲルさんは彼を実在から観念へ、と精神の進歩があったと評価しています。
アナクシメネスは万物の根源は「空気」であると考えました。
ここでいう「空気」というのは単なる物質ではなくそれを超えたものみたいです。
次はミレトスではなくイタリアのピタゴラスさん。
ピタゴラスはアルケーは数である、と考えました。何かそこにものがあるとき、私たちは1つのものがあると認識する。この1という数字こそが万物の根源なのだ、と。
イオニアの後期自然学派の哲学者、ヘラクレイトスは万物の根源は「火」であり、「万物は流転する」と考えました。
ヘラクレイトスは彼の考え方を川に例えてこう言います。
「同じ川に二度と入ることはできない」「私たちは同じ川に入り込むのであり、入り込まないのである」
万物は絶えず変化を遂げているので、同じ川に二度とは入れないってのはわかりやすいですね。また後者は、人間は同じ川に何度でも入ることができるけど、それは同じ川ではないよねって意味ですね。
アルケーを「火」としましたが、火という存在はずっと火として存在し続けますが(同じ川に何度でも入れる)、ゆらゆら燃えて灰になり煙になります(同じ川に二度とは入れない)。
……みたいなイメージ?伝わるかな。
まあ、彼が考えたアルケーは火というものによく似ていて、火こそが彼の言いたいことをうまく言い表してた、って感じですかね。
デモクリトスは万物の根源は「原子」であると考えます。
原子とはいっても今の私たちが思うような原子ではなく、観念的な、思考によって存在を捉えようとするものです。
今まではアルケーはこれ!と一つの究極的原理に還元して考えようとする一元論だったんですが、デモクリトスは存在を構成する大きな要素は複数あるいは無数だとする多元論にのっとって考えていました。
うええええええ、、、、数年後ちゃんと理解できたらめっちゃ追記すると思う。多分。
とりあえず今はこれで、たいよろだよう、、、、、
ソクラテス、プラトン、アリストテレスは次の記事でまとめようと思います。
たいせんよろしくおねがいします、、、、、、><
<参考>